私の世界は固有で可変

生物学者のヤーコプ・フォン・ユクスキュルによると、「すべての生物は、それぞれ異なる時間と空間を生きている」。この考え方を環世界というそうだ。

たとえば高齢者の多くは階段を見つけて「やれやれ大変だ」と思うが、体力ある若者は苦にしない。また、若者であっても脚に怪我をしていれば、階段を避けたいと思うだろう。→脚が不自由になったことで、高齢者の世界に気づく

たとえば私の風景写真には電柱がど真中に写っていたが、あまり気にしなかった。写真が趣味の家族からそれを指摘された。以来私は、余計なものが写り込まないように気を付けるようになった。→家族の環世界を理解した(写真を学んだ)ことで、自分の環世界が変化した

たとえば私は猫がいない生活は考えられないが、知人のAさんは「動物が家の中にいるなんてありえない」と言う。→これは難しいケースかもしれない(笑)

「環世界」なんて漢字で書かれたら何のことやら...という感じだが、身近な事例に当てはめてみれば分かりやすい。

私は仕事するとき、利用者(高齢者)の立場でものごとを見るようにしている。私の環世界と利用者の環世界が違っていても、互いの環世界は変化させたり作りかえることができる、というのも納得した。


読了:
哲子の部屋供/佑呂覆竺悗个覆い箸い韻覆い?

考えないが人間のデフォルトらしい。

介護の仕事を始めたころは、業務を覚えるのが大変で、介護そのものについて「考える」なんて余裕は無かった。

介助技術を体得し、仕事の流れが分かってきて、(在宅ケアであれば)自分ひとりで判断ができるようになってから、いろいろと考えるようになった。

たとえば、
・介護の意義とは?
・このケアは利用者のためになっているのか?
・私はなぜ「介護」を選んだのか?
等々。

今日読んだ本によれば、
"人は考えないように生きる。しかし、時に考えさせる何かと出会う"そうだ。

私の場合は多分、日々利用者と接するなかで、大なり小なり不測の事態に遭遇し、それをきっかけに「考えさせられ」ているのだろう。業務は体が覚えているから、半分自動化されている。その安定した基盤(自動化、習慣化)があるからこそ「考える」、ということのようだ。

考えずにいられるのはラクだし、平穏な気持ちでいられるんだろうな…と同時に、それは退屈かなとも思う。



読了:
『哲子の部屋 哲学って、考えるって何?』


見ているもの、見えていないもの

宇野千代さんがこんなことを書いておられた(私の記憶が少しあいまい)。

パリに行ったとき、そこかしこで男女が抱擁したりキスしたりしていた。それを見て「人前なのに」と思ってしまったそうだ。宇野さんは、目がこれまで何を見てきたかによる偏見なんだなぁと気づかされたと言っている。

よく言われるフレーズに、郷に入っては...というやつがあるけれど、宇野さんの視点は、国民性よりはもっと個人に寄っているように思える。彼女に対して古風なイメージを持っていただけに少し意外であった。

***
ガザの美容室』という映画を観たとき、何がびっくりしたかって、外では戦闘がくりひろげられているのに、美容室には女性たちがいて順番を待っていること。自分が「日常」だと思っている(信じている)ものが、他人にとっては日常ではない。スクリーンの向こうは非日常としか思えなかった。でも美容室の彼女たちにとっては確かに日常なのだ。と頭では分かるが、どう見てもそれ非常事態でしょう!?と混乱してくる。

混乱をひきずり映画は終ってしまったが、私にひとつ残ったのは「様々な日常がある」という気づき。50年近く生きてきたが、知らないことが多すぎる。学生のとき留学しとけばよかったかな。それはもう叶わないが、映画や本から刺激を受けることはできる。いろんなことを知って、自分でも気づいていない偏見を少なくしたい。

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